なんとなく安曇野。

赤、黄、緑色の物体を生産しています

   

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剪定中の畑。まだまだ真っ白。写真は8段の脚立の7段目からの風景。

 

昨日、朝は小雨、午後は小雪。雨が降るのだから朝の気温はそれほど低かったわけではなかったのだろけれど、吹く風は冷たかった。

鬼から手紙がきたと娘が騒いでいた節分も立春も過ぎてはや数日。新聞にはオオイヌノフグリがどこやらの土手で咲いてるなどの記事も見ますが、安曇野の自分の畑にはまだそんな小さな春も見つけられていません。まぁそれでも仕事中、背に当たる陽の暖かさが少しばかり強くなったかなと、春を"体感"はしています。

先日、妻のばあちゃんの米寿のお祝いの会の席で出された料理にロウバイが添えられていた。暫く花を見ない生活の中で、たとえ小さくとも鮮やかな黄色の花をみると嬉しい気持になる。料理の雰囲気も春っぽくなります。

 

只今、仕事の進み具合は全体の4割強ほど。ちょっとピッチをあげないと。でも仕事が雑になってはいけないから「ゆっくりはやく」進めていきたいです。

 

2月最初のりんごニュース「主張」に青森りんご協会創立者である渋川伝次郎氏の言葉があった。たまたま「りんご曼荼羅 渋川伝次郎の足跡(財団法人青森りんご協会 編集発行)」を読んでいたので、おっ!渋伝や!(呼び捨てですいません)と少し興奮してしまいましたが、やっぱりパンチの効いたことをいってくれはります。渋伝先生の言葉の部分を記事から抜粋。

 

役所などに”どうしてくれるか”などと問うものはりんごを伐ってしまった方が良い。

”どうしてくれるか”ではない。”我々がどうするか”である。お上の樹ではない。県庁の畑でもない。自分のものだ。自分のためにやっていることだ。保護、助成のあるところに必ず拘束、指示がある。行政の都合とか政治家、役人の立場とか制度の変遷でりんご産業が浮沈盛衰するようであってはならない。自主、自立、自由とはそういうことだ。だから、我々は団結もしなければならない。勉強もしなければならない。

(りんごニュース 2015年2月5日号 主張より)

 

公的なところからの助成は賢く利用すれば自分の経営に大きく生きるだろうし使わない手はないと正直思います。でも助成があろうが、無かろうが、やるべき仕事を自分のやるべきタイミングで進められる経営上の態勢があってこそ、そういったもんが生きてくるのだろうから、その基盤をまず固めることが先。かな。

 

先に述べた「りんご曼荼羅」を読んでいると渋伝先生の面白いエピソードが色々紹介されているですが、昨日たまたま読んでいたのが、りんご樹の観察眼がすごく優れていたとの話で、こんな記述。

 

渋川氏の風貌を見ると眉宇が人並よりもはるかに発達し、この点で原人を連想させたのである。人相学において眉宇の発達した人は観察力が鋭い人としている。渋川氏は生来観察力の強いという天稟を持っていたのである。また記憶力も人並みはずれていた。渋川氏は自ら「俺は原始人だから記憶力が強いんだ。お前は文明人だから記帳しないとものが覚えられないんだ」といっていた。

(りんご曼荼羅 2.りんご樹の観察 p.137より)

 

まったく、めちゃくちゃな論理ですが、勢いで面白い。しかし自分の事を”原始人”と言ってしまう人はそうなかなかいないだろう。さすが渋伝先生。ただ者ではない。僕の周りには野人みたいな人はいるけれど、さすがに原始人はいない。残念だなぁ。

ドラマや映画で未来からやってきた未来人が現代を変えるような話はよくあるが、原始人が現れるパターンはあまりない。テルマエ・ロマエは近いか。でもあれは原始人ではない。もし原始人が過去から現代にやってきたら、色々な現場を大きく混乱させるだろう。渋伝先生は特殊事例なんだなぁ。理屈抜きにすごいなぁ。笑。